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東歌・防人歌を読む会 バス研修

 12月4日のバス研修は風土記・那賀群エリアの古墳と神社巡り。

学園を8時半出発、馬渡埴輪窯遺跡→ひたちなか市埋蔵文化財センター・虎塚古墳・十五郎穴→川小(かご)塚古墳→酒列(さかつれ)磯前神社→清浄石→大洗磯前神社(昼食)→日下ヶ塚(ひさげづか)・車塚古墳→木下・浅間神社(古墳)→折居の泉・大串貝塚・資料館 盛り沢山の見学研修だった。

 虎塚古墳以外は全て初めて、ひたちなか・大洗エリアにこんなに古墳があるとは知らなかったし、立派な両磯前神社も名前だけだったのを参拝できたのは幸い。埋文センターの母子や馬の埴輪、大洗町第2回埋蔵文化財企画展「太平洋を見下す大洗の王墓」は磯浜古墳群(姫塚・五本松・坊主山・日下ヶ塚・車塚)の埋蔵物が展示されていた、休みにも関わらず説明頂いた 蓼沼委員には感謝。ここの円筒埴輪も見応えあった。

 

埋文センターの実物大虎塚古墳石室壁画レプリカ

母子の埴輪 埋文センター

馬の埴輪 埋文センター

球形胴壺型埴輪 車塚古墳出土

壺型埴輪 日下ヶ塚古墳出土 これら壺型埴輪の目的は分からないとのこと

大塚貝塚のダイダラ坊 埋文センターも見応えあった 

 

 酒列磯前神社の「酒列」が詠まれた東歌があった。かろうじて万葉歌を読む会の面目が立った。

「左奈都良の 岡に粟蒔き 愛しきが 駒は食ぐとも 我はそとも追じ」巻14-3451

 左奈都良を さかつれ と読むのは少し無理があるとはM講師の話し。

 

| 万葉 | 09:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
万葉バス研修(福島・郡山)

 7月17日 万葉集「東歌・防人を読む」の皆さんと福島・郡山へバス研修に出かけた。

茨キリを8時半出発。福島西ICで下り最初の訪問は「文知摺観音堂・普門院」、ここは芭蕉や子規など多くの文人が訪れたという。また、ここの文知摺石には、「鏡石」の伝説がある。

 

鏡石


 嵯峨天皇の皇子で中納言源融(とおる)が按察使として陸奥国に出向いていた、文知摺石を訪ねたとき、長者の美しい娘・虎女を見初めてしまう。融の逗留は一ヶ月余りにもおよび、二人は愛し合うようになっていた。しかし、融のもとへ都に帰るよう文が届いた。融は再会を約束し、都に旅立った。残された虎女は、融恋しさのあまり、文知摺石を麦草で磨き、ついに融の面影を鏡のようにこの石に映し出すことができた。が、このとき既に虎女は精魂尽き果てており、融との再会を果たすことなく、ついに身をやつし、果てた。
源融は二度と虎女と会うことはなかったが、虎女との恋の歌を残した。
みちのくのしのぶもぢずり誰故に乱れむと思ふ我ならなくに (古今和歌集)

 

融と虎女の墓、融は勝手にここに墓をつくられた が文句はなさそう

シンボルの多宝塔

 

 次の訪問は二本松「奥州安達ヶ原 黒塚」。バスの中で講師M先生から、謡曲「黒塚」の朗読があった。鬼婆のお話し、…「旅の衣は篠懸(すずかけ)の…」知っていたのはここだけ、次々と人を殺した鬼婆も自分の娘と知らずに殺した不幸な過去があった。能か歌舞伎の「黒塚」を観る機会をつくりたい。それにしてもこの寺 観世寺の奇岩は巨大だった。

 

自信があれば崩れそうな巨岩

鬼婆石像

黒塚 ここに鬼婆が葬られているという、寺から直ぐ

 

 三番目は、今回一番期待した 安積(あさか)山・山の井清水跡。「安積香山 影さえ見ゆる山の井の 浅き心を 我が思はなくに」、10年ほど前、NHKTVで「日めくり万葉集」を見ていた。そのなかでこの歌と、紫香楽の宮から出土した木簡にこの歌が書かれていたと紹介された。

万葉集が編纂される前に、東の国の歌が奈良で木簡に書かれていたということにロマンを感じ、悲恋の伝説とともに一度は訪ねたいと思っていた。

 

 

山の井 イメージとは程遠かった

 

 期待が大きかっただけに肩透かし。安積山はは丘のような小山、山の井は駐車場の端っこにある淀んだ水たまり。看板が無ければ見過ごしてしまう。万葉の気配は殆どない、地元ではあまり関心を持たれていないようだ。

 

| 万葉 | 22:41 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
東歌・防人を読む;下総研修旅行

 5日、東歌・防人を読む 会の研修旅行で下総方面に出かけた。

訪問地は

・矢切神社・野菊の墓文学碑

・国府台公園(下総国総社跡)

・手児奈 霊堂・手児奈の井戸・真間の継橋・弘法寺(石段)

・葛飾八幡宮・八幡の藪知らず

・船橋八幡宮(意富比神社)

・飛ノ台史跡公園博物館

 

 文学碑は矢切を舞台にする伊藤左千夫の「野菊の墓」を記念して昭和40年に建立され、左千夫の門人土屋文明の筆により、「野菊の墓」の 一節が刻まれていた。多分高校時代に読んだと思うがあまり記憶にない。バスで隣席のYさんはやや年上、昔見たこの映画で号泣、数年前に見たがまた号泣したといっていた。矢切の渡しが見えるかと思ったが見えなかった。

 

 

 国府台は戦国時代全く知らなかったが2度の大合戦があった所、総勢3万の軍が戦い犠牲者の数は半端ではなかった、土地の里見氏と北条の戦いでいずれも北条が勝った合戦とあった。公園では総社跡の碑がポツンとあった。

 万葉に関係するのは手児奈だけ、真間というのが崖という先生の説明で弘法寺の石段を登った、納得。紅葉が残る寺を下りて継橋、手児奈の井戸を見てから、葛飾八幡宮と近くの八幡の藪しらず。

 

真間の弘法寺 まだ紅葉が残っていた、手児奈関連はこの寺を下った所

 

しばらく走って飛ノ台史跡公園博物館、ここは縄文早期の遺跡。戸外で料理をする遺構の炉穴、肉や魚介類の燻製(くんせい)作りや煮炊きが行われた。旧石器時代の石器工房跡、古墳時代の住居跡、様々な土器、合葬人骨など見応えあった。

 最後は船橋大神宮、日本武尊が東国平定の折、当地にて平定成就と旱天に苦しんでいた住民のために天照皇大御神を祀り祈願された処、御神徳の顕現があった、これが当宮の創始とあった。由緒正しい大神宮、全く知らなかった。意富比(おほひ)神社は正式名。おほひ とはとても読めない。

 

大神宮にある燈明台

 

船橋の酒屋に寄った。講師お勧めの酒屋には全国の銘酒がずらり、獺祭の大吟醸がオヤッと思うお値段であった。帰って飲んでみた、獺祭は何回か飲んだがこれは素晴らしく旨い酒だった。

 

 

 

 


 

 

| 万葉 | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
多胡入野;万葉歌碑と古碑
 富岡製糸場から東へ17、8卅ると高崎市山名町に着く、ここは万葉の時代多胡郡と称された。万葉集巻14は東歌が収録されている。好きな歌が多いが、一番人口に膾炙しているのは「我が恋は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくも悲しも」ではないかと思う。私の恋は今も悲しいずっと先も悲しい…、万葉歌が好きな閑人トップ3の一つ。
 多胡の入野がどんなところか機会があれば行ってみたいところだった。この歌の歌碑もあるということで積年の想いを果たすことになった。山名町に入ると山裾の田んぼの中に「入野小学校」とあった。入野との最初の出会いに感激した。山上古碑の標識に従って細い道路を進むと沢沿いの駐車場に着いた。
山上古碑への石段を少し登ると右側に念願だった万葉歌碑があった。大きな石碑に万葉仮名の歌が彫られて、脇に解説板があった。
「私の恋しく思う心は 現在も悲しいし ずっと先も胸の詰まる思いです」、なかなか良い訳ではないかと思う。悲しは愛しとしても良い。いろいろな解釈ができるが、すっと読むだけで胸にしみる良い好きな歌。



 山上古碑と古墳を見学した後、山名城址まで歩いた。途中万葉碑が幾つか。この先にも万葉歌碑の道が続いている、全体で20碑以上あるようだ。夕闇が迫ってきた、何時か機会があったら再訪したい。その時は今回パスした多胡古碑にも行ってみたい。


山上古墳、この左に古碑がある
| 万葉 | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
珠洲の海

 珠洲に行ったら是非行きたいところがあった。まじめな越中国主家持が出挙のため珠洲を訪れたときの歌、

珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば 長浜の浦に月照りにけり巻17・4027
家持らしい良い歌、この歌碑が珠洲の春日神社にある、是非見てみたかった。



万葉仮名の歌碑

歌碑の万葉仮名、他に説明はなし、少々不親切
 

 農民に稲種を強制的に貸付け、秋に3〜5割の高利をつけて納入させるのが出挙。家持一行の能登巡行は、この出挙稲の割り当てだった。朝早く珠洲の海をこぎ出して、ようやっと長浜まで来たら月がこうこうと照っている、家持の胸に去来したものはどんな感慨だったのであろうか

 

| 万葉 | 22:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「思うどち」
 

 万葉集に「思うどち」を読み込んだ歌が何首かある。

1月と2月のNHK「日めくり万葉集」でそれぞれ1首ずつ取り上げられていた。

・新たしき 年の初めに 思うどち い群れておれば 嬉しくもあるか・・・道祖王 (巻19・4284)

・酒杯に 梅の花浮かべ 思うどち 飲みてし後は 散りぬともよし・・・大伴坂上郎女 (巻8・1656)

 気を許せる親しい仲間が群れて酒を酌み交わし良いひと時を過ごす。万葉人も今も同じ。

古希も近くなるといろいろな集まりに出るのが楽しみ、いくつかのOB会、同期・同窓会、ハイク仲間、蕎麦・平家など趣味の会、お酒が入る「どち」の会は楽しさもひとしお。

 いっぽうで「独居老人」ということも気になる、「どち」の仲間になれるようにはどうすればいいのだろうか、考える必要がある。

 

 他の万葉歌

・梅の花 今盛りなり思うどち かざしにしてな 今盛りなり・・・(巻5・820)

春日野の 浅茅が上に思うどち 遊ぶ今日の日 忘らえめやも・・・(巻10・1880)


諏訪梅林にて

| 万葉 | 11:47 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
山陰の文学散歩−因幡国庁跡
 「平家物語を読む会」の講師H先生以下21名は11月8日羽田発6時40分の1番機で鳥取に飛んだ。今回は家持最終歌の地;因幡の国と平家落人伝説の里;隠岐四島を訪ねる旅。
 最初に向かったのは因幡国庁跡、大伴家持が万葉集最後の歌を読んだところ。
続日本紀によると天平宝字2年(758)6月、家持は因幡守に任ぜられた、41歳だった。時は孝謙天皇が即位、女帝の信頼を得た藤原仲麻呂が政治の中枢にあった。家持と近い橘諸兄が退けられ、孤立感を強めていた矢先、明らかな左遷だった。
 国庁跡は鳥取県国府町にありその規模は東西150m南北216m、面積約32000屬隼廚辰燭曚氷くない。越中に比べると左遷だったことが良く分かる。


因幡国庁跡:礎石などがあるが鄙びた公園といった感じ

 翌年正月一日に歌を詠んだ。
因幡の国庁として、饗(あえ)を国郡の司等に賜へる宴の歌一首
「新(あらた)しき 年の始めの初春の 今日降る雪の いや重(し)け 吉事(よごと)」 (4516)
不遇な境遇の貴公子が、「この初春の、今日降る雪のように、良き事が、次々に積もるが良い」と詠んだ。 めでたい豊年を祈る国守の立場とともに、名門貴族大伴家の再興をこめた気持ちも伝わってくる。

 歌碑は万葉仮名、隣に佐々木信綱の解説歌、「ふる雪の いやしけ吉事 ここにして うたいあげけむ 言ほぎの歌」の立派な歌碑があった。少々おせっかいが過ぎる気がする。

万葉仮名の最終歌:歌碑は国庁跡から歩いて10分程度のところにある
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| 万葉 | 11:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
雪月花
 今年は雪の降る日が多い。今日も日中雪が降った、積もるほどではなかったが裏山は薄っすら雪化粧。夕方にはここ数日ぐずついていた天気がやっとあがり、東の空に満月。梅の花はほぼ満開。風流な雪月梅花の日だった。
 雪月花(せつげつか、せつげっか)は、白居易の詩「寄殷協律」の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」による。雪・月・花という自然の美しい景物を指す語であるとウィキペディアにある。

日本では大伴家持の歌がある。 巻18‐4134 宴席にて雪月梅花を詠む歌一首
「雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて送らむ はしき子もがも」
〔雪の上に月の照り映えているこんな夜に、梅の花を手折って送ってやれる、かわいい娘がいればよいのだが〕
この歌が日本の雪月花の最初だそうだ、さすが家持。
こんな晩には梅の花を浮かべた澄んだ酒、が似合う。


| 万葉 | 22:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
埼玉(さきたま)の万葉歌・・・防人の歌(八幡山古墳)
 八幡山古墳は地図では分かり難いが道標が多く容易に着いた。事務所で記帳をして先ず防人の歌碑に面会した。
・足柄の み坂に立ちて 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも・・・巻20 4423
・色深く 背なが衣は 染めましを み坂給(たば)らば まさやかに見む・・・4424
 夫婦唱和、夫は埼玉の群の上丁藤原部等母麻呂(ふじはらべのともまろ)、妻は物部刀自売(とじめ)。上丁だから一般兵士、多分農民だろう。防人に出征する夫を武蔵の国府まで見送り、別れの席で詠みあった歌だろうといわれる。東国埼玉群の農民夫婦がこんな歌を残したことは凄いこと、碑の裏側にそんな誇らしげな文が彫ってあった。

 
埼玉の防人歌碑

歌碑のある八幡山古墳・・・別称「関東の石舞台」
| 万葉 | 11:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
埼玉(さきたま)の万葉歌・・・小崎沼と埼玉神社
 行田は足袋や埼玉古墳群で知られる。特に稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣は115文字の金石文が古墳時代の高い歴史的価値を持つものでずっと現物を見たいと思っていた。
 他にこの地を歌った万葉人とその歌碑にも興味があった。
常磐・北関東・東北道と走り羽生ICから行田まで2時間半ほど。最初に下埼玉(さきたま)の小崎沼に行ってみた、少し迷ったが田んぼのなかの小森が天祥神宮、なかの小沼の脇に墓石のような万葉歌碑があった。石柱費の正面に「武蔵小崎沼」とあった。後面と右面に万葉歌が刻まれているが分かり難い。この碑は宝暦3年(1753)忍城主阿部正因が刻んだということだ。
・後面の歌  「埼玉の 小崎の沼に 鴨ぞ翼霧(はねき)る 己が尾に 降り置ける霜を 払うとにあらじ」・・・巻9 1744
・右面の歌  「埼玉の 津に居る船の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言な絶えそね」・・・巻14 3380
 津を思わせる風情はないが当時は利根川の入江になっていたのか、赤城下しの強い風でもやい綱が切れても・・・素直な恋心の東歌。

小崎沼の石柱碑

 この後さきたま古墳群の端にある埼玉神社を訪ねた。石段の中腹に二基の灯篭がありこの燈身に同じ歌が万葉仮名で刻まれている。元禄十年(1697)氏子達の奉納ということだ。
 
左右の石灯籠の燈身に刻まれた万葉歌
| 万葉 | 23:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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