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下野国史跡と風土記

 茨キリの市民講座は「常陸風土記を読む」が終了して、万葉集「東歌、防人」の歌を読むになった。この講座は前後期各10回で、それぞれ2回の研修旅行がある。

11月7日はバスで下野国南部の風土記関連と史跡巡り。

 宇都宮上三川ICで下りて、上蒲生の蒲生神社へ。この神社の「創立記」によると、黒坂命が東征の際小祠を建て戦勝祈願をしたことに始まる。その孫蒲生黄意美が日本武尊に従軍しその功により蒲生稲置の名を賜り,当地を領するにあたり八千矛岡に社殿を造営し,蒲生神宮と称した とある。

 

 

次は下蒲生の蒲生神社へ、黒坂命の東征戦勝のお礼に蒲生稻置が奉祀した社と伝わる。東征に勲功のあった子孫が多く東国を受領した。蒲生稻置はその一人である。

 

 

何れの神社も小振りで風土記・黒坂命に関する社歴表示もない、土地の皆さんはどの程度ご存知なんだろうか。

 

 少し走って、「下野薬師寺歴史館」。女性館長とボランティアガイドに迎えられた。2班に分かれ、最初に館内展示品の説明を受けてから遺跡を見学した。この寺は7世紀末頃の創建とされ、東国唯一 僧の受戒のための戒壇が置かれたという。様々な瓦、史跡では立体的な復元模型が観られるタブレットなど 様々な工夫があり見応えあった。ここで昼食。

 

100m四方の回廊一部復元モデル 

 

 龍興寺は道鏡塚がある。道鏡と言えば膝が三つある、それ位凄いモノを持っていた。孝謙女帝との関係など下ネタで知られる。本当はということでバスの中で先生の講義があった。孝謙天皇が後継者問題で身体を患い、それを献身的に看病した事で特別な関係が生まれた。彼は僧侶の立場で太政大臣禅師にまで上り詰めた。宇佐八幡神託事件という皇位をも譲る譲らないの問題にまで発展し、下野に流された。この地では親しまれ尊敬されたようだ。道鏡塚は小さな古墳、ひっそりと佇んでいた。

 

右に塚への登り道がある

 

 小山の高椅神社(鯉の明神さま)、縄文遺跡の寺野東遺跡を見学して帰路についた。

 

盛上がった黒っぽい所が「石敷台状遺構」

 

| 記紀、風土記 | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
常陸風土記、香島郡バス研修

 18日は「常陸風土記を読む会」の香島郡バス研修。9時茨キリを出発、R51を走って鉾田まで。最初の訪問地は大光寺(白鳥の里)、「郡の北30里に、白鳥の里あり。・・・天より飛び来たり、僮女と化為りて、夕べに上り朝に下る。石を摘ひて池を造り、其が堤を築かむとして、徒に日月を積みて、築きては壊えて、得作成さざりき。」

無住の寺は素っ気ないが八体の子安観音像が象徴のようだ。看板で「弥生時代の人々が、水田を開拓し用水池を造成したとき、幾多の苦労があった。それを穀霊の象徴である白鳥に託して語り伝えた美しくも悲しい説話」と述べらている。

 

子安観音像

 

この後、沼尾神社と坂戸神社を訪ねた。「天つ大神の社(鹿島神宮)と、坂戸の社と、沼尾の社の三つを合せて、香島の天の大神と称えた」と風土記にある。ともに小振りの社だったが生茂る樹叢は風土記の雰囲気を醸し出してくれた。

 

鹿島神宮は3度目、鳥居の手前に防人の歌碑「霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我は来にしを」をみてから、坂戸社・沼尾社遥拝所へ。香島三社も遥拝所が鹿島神社にあったのも知らなかった。

 

防人歌碑

坂戸社・沼尾社遥拝所

 

摂社、本宮にお参りして次の鹿島神宮跡宮に向かった。鹿島の大神が始めて天降り給いし所 ということ。社殿は鹿島神宮に比べてあまりに小さく質素。訪れる人もあまりなさそうだ。

 

鹿島神宮跡宮 どなたか社の周辺を丁寧に掃き清めていた

 

香島郡衙後は広い草地、風土記に「其の社の南、郡家の北に、沼尾池あり」とある。神之池(寒田池)、権現塚古墳を見学して息栖神社へ。この神社は鹿島神宮、香取神宮とともに東国三社のひとつ、祭神は鹿島大神・香取大神の先導にあたった神様。

 

香島郡衙後

 

最後は鹿島神宮・東一の鳥居(明石海岸)、防波堤の前に慎ましやかな木の鳥居が建っていた。

 

鹿島神宮・東一の鳥居

 

 「かしま」は風土記の「香島」、万葉集 防人歌では「鹿島」、市は「鹿嶋」、気になって調べてみた。風土記には「天の香島の大神」「日の香島の宮」とある。香島は短かったようだ。鹿嶋市は平成7年に旧鹿島町と旧大野村が合併した。当時、九州佐賀県に「鹿島市」があったので、同名をさけるために「鹿嶋市」になった とあった。

 

 

| 記紀、風土記 | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
常陸国風土記 「多珂郡」研修旅行

 6月20日、茨キリ9時出発 常陸国風土記 「多珂郡」研修バス旅行 に参加した。

コースは 近場の 泉が森からスタート、仏の浜(小木津浜)−愛宕神社・藻島駅家跡(十王町伊師)〜常磐道でいわき中央〜大国魂神社(いわき市)−甲塚古墳(いわき市)−夏井廃寺跡:車窓−根岸遺跡(いわき市)−中田横穴墓(いわき市)−国魂神社(勿来町)−田神社−金冠塚古墳−大塚神社・夫婦塚(北茨城市)−左波々地祇神社(華川)−左波々地祇神社(大津港)

 

 幸いにも梅雨の晴れ間の一日。小木津浜の仏の浜は車で何回も通過したところ、風化していたがかすかに小柄の摩崖仏が確認できた。

藻島駅家跡は愛宕神社裏の草生した林の中、日立市郷土歴史館の職員が出向いて説明して頂いた。草むらの中の礎石や、森の凹みが街道跡と思われるなど、興味をそそられロマンを感じた。

小さな甲塚古墳や、クレハ化学の前にある金冠塚古墳も全く知らなく浜通りの往時の豪族を偲ばせた。北茨城市の大塚神社は大きな前方後円墳にある、古墳かどうか異論があるようだが経常的にはどう見ても古墳、でもこの地では巨大すぎるのか、発掘調査もされてないようなので今後の調査を待つしかないようだ。

 

甲塚古墳、小振りな円錐古墳

工場に挟まれた道路の一角にある小振りな古墳

 

研修旅行は神社訪問が多い、今回も7ヵ所訪れた。多くの神社は出雲の祭神が多い、講師からの説明があったと思うが聞き逃した。

佐波々地祇神社は北茨城市の華川と大津港、2ヵ所にある。大津港の神社はお船祭の出発地だとこれも初めて知った。

 

大津港の佐波々地祇神社には錆びついた錨が奉納されていた

| 記紀、風土記 | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
常陸国風土記;筑波郡研修旅行

 12月13日は風土記を読む会の筑波郡研修旅行。9時学園発。

コースは、1.上高津貝塚ふるさと歴史の広場(考古資料館)ー2.武者塚古墳ー3.平沢郡衙跡ー4.蚕影山神社ー5.六所神社ー6.つくばふれあいの里(夫女ヶ原)ー7.飯名神社ー8.八幡塚古墳ー9.筑波山神社

 うず高い貝塚と貝の種類、綺麗に整備された郡衙跡、立派な筑波山神社も印象に残ったが、今度の研修旅行で一番行ってみたかったのが筑波山麓の歌垣跡。万葉集に高橋虫麻呂がこの地の歌垣を詠んでいてその歌碑がある。

 

上高津貝塚;2m以上様々な貝が堆積

平沢郡衙跡;鼠返しのある高床式建物が復元されている、周囲は広い芝生

 

 歌垣、嬥歌(かがい)は、万葉の男女が集って歌い、踊り、食べたりした野外パーティ。配偶者を求める機会でもあり、現在の婚活パーティにあたるといえる。気の合った男女は林の中に入り、ひと時を過ごすこともあったのだろう。そんな場所が夫女ヶ原で陰陽石がある。歌は万葉集;第1759・1760。

 



歌 碑
「筑波嶺に登りて嬥歌会(かがひ)せし日に作れる歌一首並に短歌」
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あとも)ひて
未通女壮士(をとめをのこ)の往き集ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 他妻(ひとづま)に 吾も交らむ わが妻に 他(ひと)も言問(ことと)へ この山を 領(うしは)く神の 昔より 禁(いさ)めぬ行事(わざ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな 嬥歌は東(あずま)の俗語にかがひと曰(い)ふ
反歌
男(を)の神に 雲立ち上り 時雨ふり ぬれ通るとも 我還(かえ)らめや
右の件(くだり)の歌は高橋連蟲麿(たかはしの むらじ むしまろ)の歌集の中に出でたり

<口語訳>
筑波山に登って嬥歌会をした日に作った歌一首並に短歌
鷲の住んでいる筑波山の裳羽服津の、その津の辺に連れだって、若い男女が往き集まり、歌って踊るこの嬥歌会の夜には、人妻におれも交わろう。おれの妻に他人が言い寄ろうともかまわない。この山を治めている筑波の神が昔から禁じていないことなのだ。今日だけは、妻をかわいそうだと思うな。相手の男性をとがめだてするな。
反歌
男の神のいます男体山に、雲が立ち上って、時雨が降り、びしょぬれになろうとも、一夜の半ばで帰ったりするものか。

 

夫女ヶ原の陰陽石;古来この一帯で嬥歌が行われていたという、歌の内容通りかどうかは怪しげか。
 

| 記紀、風土記 | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「常陸国風土記」那賀郡バス研修

 10月25日(火)は「常陸国風土記を読む」の那賀郡バス研修。那賀の郡は現在の水戸市・ひたちなか市・東海村・那珂市・城里町・常陸大宮市の一部。学園を9時出発、那珂ICで下りて最初は、曝井、愛宕町滝坂の泉が遺跡。万葉集「三栗の那賀に向える曝井の絶えず通わむそこに妻もが」の碑があった。少し坂を登ると愛宕山古墳、古墳は愛宕神社が占領していた。

 

曝井の泉 きれいな水が湧いていた

曝井の万葉歌碑 「三栗の那賀に向える曝井の・・・」

 

この後のコースは

*台渡里(だいわたり)廃寺跡・那賀郡衙跡、*大井神社(祭神:初代那賀国造、建借間命)、

 

大井神社境内にある苔むした八角堂、八方除けのようだ

 

*ホロルの湯で朝食;山麓に大きな施設、にっこり梨4個500円は安い、平日にもかかわらず駐車数は多い

*朝房山(晡時臥山:くれふし);風土記のお話し:この山の麓に、ヌカヒコ・ヌカヒメ兄弟が住んでいた。ヌカヒメのところに知らない男が通うようになり妊娠して生まれた子は蛇。最初は皿で育てたがどんどん大きくなり器がなくなった。ヌカヒメは「お前は神の子なので、父の下へ帰りなさい」と伝えた。子は帰るが誰か御供をと答えた。御伴はつけられないとヌカヒコが告げると、子はヌカヒコを殺して天に昇ろうとしたのでヌカヒメは驚き、小甕を投げつけると天に昇れなくなり晡時臥山に留まった。

 この山は201mと高くはないが麓から直登、息を切らした頂上には浅房山の大きな石板と石の祠があった。祠の脇に浅房山201.1mの板が掛っていた。晡時臥山の表記はどこにも見当たらなかった。

 

朝房山(晡時臥山)、右の石板には「浅房山」

 

*鹿島神社、*香取神社

*木葉下(あぼっけ)町 金鉱跡;水戸で金が産出したというのは知らなかった、説明板によると豊臣政権下で上杉・伊達領に次いで三位だっだ、坑口は30とも40ともあったとある。それにしても木葉下を”あぼっけ”とは、アイヌ語なのかハングル語なのだろうか。

 

木葉下金山後の石碑

金山坑口、狭い‼、ここからどうやって入ったのだろう

 

*立野神社

*くれふしの里古墳公園・十二所神社;狭い範囲に前方後円墳6基、帆立貝形前方後円墳1基、円墳9基ある。くれふしの里は一般公募で、正式名称は牛伏古墳群(うしぶし)。

*船塚古墳;古墳上に忠魂碑と慰霊塔とは・・・、*有賀神社、*一本松古墳、*山王塚古墳は時間の関係でバス車窓から。

*小原神社;バス研修最後の訪問、薄暗い境内に大きなケヤキの古木が3本、それぞれ第1号〜3号と標識があった。

 

巨大な欅の古木

 

 午後から小雨がぱらついたがたいしたことなく30分近く遅れて学園に戻った。盛り沢山の那賀郡だった。

 

| 記紀、風土記 | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
風土記研修旅行;鉾田・行方・潮来

 常陸国風土記は行方郡が終わって香島郡を読んでいる。研修旅行は前回に続き行方・香島郡の霞ケ浦・北浦エリア。

最初は鉾田市鳥栖の鹿島神社、鳥居に掛る三重の〆縄が珍しい。祭神は建御雷之男神。大鯰を踏みつけ地震を制する神、今こそ活躍を期待したい。

風土記で当麻(たぎま)の郷は郡の役所から東北15里にあり「香島・香取二つの神子がある」、この神社が香島に比定される。

次は近くの無量寿寺、茅葺大屋根の本堂、親鸞が女性幽霊を鎮めるために3年滞在したといわれる。境内には樹齢800年の菩提樹、斑入り銀杏、焼榧など。幽霊の掛け軸図は年に一度開帳されるようだ、少し興味がある。

少し南に下って「化蘇沼稲荷」、藝都(きつ)の里の遺称地。神社の後ろに涸れた池があった。次の香取神社は近い、寸津毗古・寸津毗売(きつひこ・きつひめ)のお話し。寸津毗古は倭武天皇に殺されたが寸津毗売は天皇の側女になった。この毗売を祀る神子御前の宮が講師のガイドがなければとても行けない場所にあった。小さな祠は地元の意地のようなものを感じた。

 

化蘇沼稲荷にある寸津毗古・寸津毗売像;宮路久子さん作

香島神社

毗売を祀る神子御前の宮

 

しばらく南に走って昼食場所の寿福寺・雷神社、何故か道教大明神の祠もあった。

 大生(おほふ)の地名は倭武天皇のための食事を用意した、炊事舎の意である「大炊」が「大生」になったとされる。いっぽうこの地の豪族多(オフ)氏にちなむともある。大きな樹叢に囲まれた大生神社は銅板葺の拝殿が立派、左手には斎殿があり巫女舞神事(11月15日)が行われる。7〜12歳の巫女のなり手がないのが悩みということだ。神社を囲むように大生古墳群がある。前方後円墳11基、円墳122基、方墳4基、上方下方墳2基というからすごい数だ。鹿見塚古墳に登り往時を偲んだ。

 

大生神社

 

 長勝寺は1185年創建の臨済宗の寺。源頼朝が建立し、水戸藩主の水戸光圀が再建した。大きな山門、本堂も堂々。庭には松尾芭蕉の句牌があった。

 

立派な山門;仁王像がなかったのは?

 

稲荷山公園の展望台から霞ケ浦を見下ろし、野口雨情の「枯れすすき」歌碑と小さな古墳を見てから最後の国神神社へ。小振りの社は嘉歴元年(1326年)大洗磯前神社のお分霊を迎えて鎮斎、応永2年(1386年)氏子が雄獅子、雌獅子、中獅子の三体を寄進したことから始まり、この獅子舞の奉納で知られる。

 

 霞ケ浦沿いの道の駅で鯉・鮒・藻海老・白魚などの土産を仕入れて帰路に就いた。

| 記紀、風土記 | 22:16 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
常陸国風土記;行方郡

 常陸国風土記を読む、5月から香島郡が開講。毎週火曜日5回目の6月14日はバス研修で行方郡の風土記紀行。

9時学園発、常磐道から茨城空港北ICで下りて行方市へ。最初の訪問は梶無川(金谷橋)、風土記に「倭武天皇が巡幸の折、大益川(おおや)においでになり、小舟に乗って川を上られる時に、棹と梶が折れた。これにより梶無川という」とある。幅2m弱の田んぼを流れる川はとても船が通れたとは思えなく、往時を偲ぶ縁はない。鯉・鮒が群れていたというが影もなかった。

 

梶無川、金谷橋から 船が通った古代の川のイメージはない 

 

次は近くの鴨の宮神社、倭武天皇が鴨を射る小柄のブロンズ像は行方市出身の彫刻家「宮路久子」作、この人の作品は椎井池・夜刀神にもこの神を退治したと言われる壬生連麻呂の像がある。玉清の井は池の湧水が木枠で囲われ、その先に宮路さんの倭武天皇のブロンズ像が立っている。

 

倭武天皇が鴨を射るブロンズ像、行方市出身の彫刻家「宮路久子」作

成敗された夜刀神の祠は小さい、壬生連麻呂の像は湧水の脇にひっそりあった

玉清の井と倭武天皇の像

 

 霞ケ浦は大きい。南東岸の天王崎公園で昼食、水上バイク同行者が休憩していた。近くの八坂神社を参拝。昼最初は大麻神社、この地域に麻が良く育っていること、そこからこの地を「麻生」と呼ぶようになったことが風土記に記録されている。

日吉山王神社、大木のスダジイのある側鷹神社、小さな祠の国神神社、最後は宮路さんの古代家族像のある荒原神社。どの神社も鬱蒼とした森に囲まれて社は小さくとも風格を感じさせる風土記の神社だった。

 

| 記紀、風土記 | 23:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
風土記バス研修;茨城郡
 12月8日、茨キリ秋季講座「常陸風土記」を読む会は茨城郡(うばらきのこおり)のバス研修。現在の石岡市・かすみがうら市、小美玉市周辺の所縁の地を訪ねた。
 コースは小美玉ICから〈石岡市〉;国分寺・国分尼寺ー常陸国衙跡・民俗資料館−総社宮ー茨城郡寺跡ー茨城郡衙跡ー舟塚山古墳−愛宕山古墳ー高浜神社ー〈小美玉市〉;大宮神社ー舟塚古墳ー三昧塚古墳
 国衙は奈良・平安時代の役所跡で、今の県庁に当たる。石岡小学校校庭で発掘された、今は埋め戻されて何もない。校舎の片隅に万葉歌碑があった。



「庭に立つ 麻手刈り干し 布さらす 東女を 忘れたもうな」常陸娘子 巻四-521
常陸守に任命された藤原宇合が帰任の際の宴で詠まれた歌、麻の刈り干しは女の労働、東国の田舎女といえども馴染みの仲ではないですか、お忘れくださいますな。東歌は巻十四、巻四に収められたのは都の貴族にかかわる歌だったためか。
国分尼寺跡は三万m²と広い。聖武天皇・光明皇后の威光を見せつけられた。


周囲は回廊の石畳が再建されている

郡寺跡、郡衙跡を見学した後は古墳群。最初は府中愛宕山古墳、6世紀初めに建てられた前方後円墳は住宅に近接して一部変形していた。近くの船塚山古墳は全長186mと東国第二位で県内最大の国指定史跡。一番印象に残ったのは霞ケ浦近く行方市の三昧塚古墳。


愛宕山古墳、左は一般住居

三昧塚古墳 石棺の内部が描かれている

 たまたま読売新聞の「時代の証言者」大塚初重「古代日本を掘る」12月5,6日にこの古墳のことが書かれていた。
「昭和30年3月27日、古墳の土を防潮堤工事に使いさら地は水田にする工事が始まって緊急発掘の指示が出た。業者、住民の説得に苦労しながら発掘を進めた。4月中旬、未盗掘、無償の石棺が発掘された。石棺の脇には鎧・甲・馬具が副葬され蓋を開けると土のなかから金銅の冠、遺骸、鏡2枚。…三昧塚は東日本では相当に重要な古墳でした。立ち去る時、根本さん(宿泊宅)も区長さんも泣きながら手をいつまでも手を振っています。私も泣いて別れました。考古学をやっていて本当に良かった。」
 
| 記紀、風土記 | 10:10 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
常陸国風土記 バス研修(新治郡)
 11月10日、9時キリスト教学園発の常陸国風土記バス研修に参加した。
ルートは常磐道から稲田駅・石の百年間−稲田神社ー西念寺ー鴨大神御子神主玉神社ー香取神社ー門井神社ー新治廃寺跡・新治郡衙跡 −大神駅家跡ー鏡ケ池−常磐道ー学園もどり。
 最初は稲田駅に隣接されている「石の百年間」、花崗岩の「稲田石」は日本の代表的な「みかげ石」。様々な展示品がこれでもかとある。北関東高速道が出来る前50号線を良く走った、稲田周辺の石材店が記憶に残っている。
 次は近くの稲田神社、鳥居先の階段を上ると拝殿・本殿。主祭神は奇(くし)稲田姫命、拝殿の左右に姫の父母である手摩乳神社 (てなづち)、脚摩乳神社 (あしなづち)がこじんまりと、右奥に素戔嗚尊の八雲神社、出雲神話の世界が再現されていた。神話のおろち退治は櫛になった姫命で櫛名田比売と思っていた。先生に質問した、奇は「優れる」「貴重である」「特殊である」などの意味がある、櫛より奇が本来の名前に相応しい、なるほど。帰ってネットを見てみた、櫛名田比売は古事記、奇稲田姫は日本書記の表記とあった。


稲田神社、拝殿と本殿 右に八雲神社、左に姫の両親の祠がある

 この後親鸞が教行信証を執筆した西念寺(ここは二度目、お葉付き銀杏の黄葉は見事だった)。


お葉付き銀杏の大木、綺麗に色付いていた

岩瀬町の鴨大神御子神主玉神社、香取神社では花園3号墳の装飾壁画レプリカを見た。本物だったら虎塚古墳に勝るとも劣らないといったらおおげさか。


ネット写真借用

 筑西市に移動して門井神社から新治廃寺跡・新治郡衙跡へ、ここは50号線を走るとき気になりながら通り過ぎていた。壮大な寺院跡、郡衙跡は当時の豪族が大きな勢力を持っていたことの証明。古墳の数など行田市の「さきたま」とともに当時の関東エリアが畿内に伍した豪族がいたということになるようだ。常陸国風土記に出てくる倭武天皇はヤマトタケルではなくこの地の長、という先生の説が納得できる。
 大神駅家跡は高峰山南麓の畑のなかにある、この付近に大蛇が多くいたので大神(蛇)駅家としたという。良くここを駅家と比定したもんだと感心した。史跡板に先生の解説文が刻まれていた。


中央の民家が駅家跡ではないかと先生の説明

 最後の訪問は桜川の水源地「鏡ヶ池」、山道を鍬柄峠の途中まで登って池に流れ込む小沢を見下ろした。

中央やや左に鍬柄峠への山道がある、途中まで登った
 


 
| 記紀、風土記 | 18:33 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
風土記;バス研修:黒坂命
 バス研修最後の訪問は大塚古墳(黒坂命古墳)。黒坂命(くろさかのみこと)は風土記を読むまで知らなかった。
茨城郡にこの人の記載がある。「賊を滅ぼし、茨を以(も)ちて城(き)を造りき。所以に地(くに)の名を茨城(うばらき)といひき。」 茨城県の由縁。
また逸文の信太郡(郡名)に、「黒坂命、陸奥の蝦夷を征討ちて、事了へて凱旋(かちかえ)り、多歌の郡の角枯の山に及りて、病に遇(遇)りて身故(みまか)りき。ここに角枯を改めて黒前の山となずけき。黒坂命の棺車、黒前の山より発ちて日嵩見の国に到りき。・・・時の人、赤幡の垂(しだり)の国と謂匹。後の世の言に、便(すなは)ち信太の国と称う。云々」
 角枯れ山・黒前の山は十王の黒前にある竪破山、山頂にある黒前神社の御祭神は黒坂命。美浦村にある大塚古墳にこの人が埋葬されたといわれている。こじんまりした円墳、上から霞ケ浦が見渡せる。豊かな田園も広がっている、この地に埋葬してほしいと遺言したとある。



 茨城県人、日立市民として知っていたほうが良い古代の武人。古希を過ぎた身で初めて知った名前、風土記で出会えて良かった。
| 記紀、風土記 | 16:02 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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